1930年、エドワード・セジウィック監督作品。

キートン自伝が大変楽しかったので、キートンを色々借りてきました。時代がトーキーになってからもそこそこトーキー映画を作っていたことは、自伝を読んで初めて知り(物知らず)、びっくりしたのであえてトーキー後のを。これはキートンの初トーキー。

自伝では「トーキー?別に自分にはどってことなかったし。トーキー後も自分の映画はヒットしてたし(大意)」というように書いていたので…。喜劇王の座から滑り落ちたのはトーキーそのものよりもMGMとの軋轢と家庭崩壊⇒離婚&財産も子供もまきあげられて深刻化したアルコール依存症、が直接の原因だったと本人は考えていた模様。

…はい、これは普通にトーキー映画、それも半ミュージカルでした。

カンサスの田舎町でミスコンに優勝したエルヴィラ(アニタ・ペイジ)は、彼女をスターにしたい母親(トリクシー・フリガンザ)に連れられハリウッド向かう。同行するマネージャーのエルマー(キートン)は優しく美しいエルヴィラに惹かれ、絶対スターにするぞ!と気負っているが、押しの強い母親に振り回され続け。道中、彼らと知り合った映画スターのラリー(ロバート・モンゴメリー)も早速エルヴィラを口説き始めるのでエルマーは気が気でない。撮影所内で騒動を繰り返すうち、何のはずみかエルマーは端役に配役され…?

最後にはエルマーとエルヴィラの母親の二人がコミック・オペラのスターとして抜擢されて、肝心のエルヴィラは映画スターではなく他の誰かさんのお嫁さんになっちゃうというオチ。

テンポはサイレントの時にくらべるとむしろイマイチに感じるのだが(話し声や効果音があふれていると、主役キートンへの集中感は減少して感じる)、中身は、…色々と、ビックリしました。
キートン、終盤、歌って踊りまくるし(レビューシーン自体はあまり出来がいいと思えないが、キートンの身のこなしはさすがに鮮やかだ)。
ラストはペーソスもいいとこだし(チャップリンじゃあるまいし…)。ただ、それはそれで、サイレントの喜劇王としてでなく、普通のトーキー役者としては、結構見ていて心にしみるものがある。相変わらず笑わぬ無表情(デッド・パン)なのだが、表情豊かな無表情なのはサイレントでもトーキーでも同じだ。晩年まで、時々映画にチョイ役で画面にアクセントをつけに現れていたのも無理はない。
…でも、いいのかな、このエンディングで…とも思わずにはおれないな。
★3はつけすぎかもだけど、へぇーッというのがアレコレで★2にはしないでおく。

自伝は自伝ならではの錯覚や誤魔化しやホラや韜晦があろう。てんでトム・ダーディスの「バスター・キートン」も借りてきて読み始めた。「キートンは内気で神経質で暗くて謎めいててコメディアンとは思えぬ性格」とか書いているので、後から出版された「自伝」の明るい調子と読み比べると“大丈夫か?”と思わぬではないが、別の視点を試すのは意義があるはず。例えばダーディスに言わせると、トーキー後、キートン映画の質は下がるが収益はむしろアップしていて、それが更にキートンの足を引っ張ったということだ。キートンはMGMのやり方に対して不満だが、MGMの方ではトーキー前以上に映画がヒットしているのはMGM側の判断が良いからだと譲らない…というわけだ。なるほどねえ。

借りてきたトーキーもボチボチ見続ける予定だが、それ以上に、サイレント期の傑作群を、私はまだまだ一杯見残している。幸せなんだと思おう。いや、幸せだよね。

コメント

nophoto
たけだ
2010年9月12日12:47

ボースン様

私は自伝は持っていないのですがダーディスの方は持っています。

うーん、普通のトーキー映画ですか。
ということは多分、キートンも普通の役者としてなら生き残れた可能性が大きいということでしょうか。

サイレント期の傑作群があまりにも完成度が高いので、最初の数本のトーキー作品はともかく、その後の作品は、少々出来がいいくらいでは本人も観客も納得しなかったかもしれませんね。

ボースン
2010年9月12日23:37

こんばんわ、たけださま。

>サイレント期の傑作群があまりにも完成度が高いので、最初の数本のトーキー作品はともかく、
>その後の作品は、少々出来がいいくらいでは本人も観客も納得しなかったかもしれませんね。

トーキーのキートンに、サイレントのキートンを求めようとしなければ、別に問題なく才能あるコメディアンなのでは。「歌劇王」はかなり面白く見れました。アルコールで完全に体調を崩してからはともかくとして。

ダーディスを読むと、サイレント作品もリアルタイムでより後年再発見されてからの方が評価が高くなっているようですね。サイレント作品の方がシュールなまでの過激さが伝わる分、より時代を超えて評価されるのかもしれませんが。

nophoto
たけだ
2010年9月13日7:36

ボースン様

当時の観客層からしても、クールなキートンよりウェットなチャップリンが好まれたのはある意味しかたがないことですね。
映画的フォルムが抜群だったハワード・ホークスも所謂「社会的メッセージ」のない単なる娯楽映画作家、通俗的などと言われていましたし。

とにかく「トーキーに適応できなかったキートン」という紋切り型は、再検討が必要ですね。

ボースン
2010年9月13日9:24

おはようございます、

>映画的フォルムが抜群だったハワード・ホークスも所謂「社会的メッセージ」のない単なる娯楽映画作家、通俗的などと言われていましたし。

チャップリンは「トーキーを乗り越えた」と言われていますが、トーキー時代に入ってからは暫く沈黙し、確認すると5年に一本程度にしか映画を作っていませんね。サイレントだった「サーカス」の次は1936年の「モダン・タイムス」と40年の「独裁者」、次は47年の「殺人狂時代」、まあコレはそれほど受けなかったんでしたっけ。社会風刺を強く押し出した作品ばかりです。情緒的なチャップリンがトーキーに強くて、でもキートンはって言うのは、何か違うような…

>とにかく「トーキーに適応できなかったキートン」という紋切り型は、再検討が必要ですね。

「トーキーに適応できなかった☓☓」は色々言われているようですが、この表現をまともにとっていいのは、声の問題で消えた俳優たちの場合だけかもしれません。

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