マイ・フェア・レディ
2012年3月14日 映画 コメント (16)
1964年、ジョージ・キューカー監督作品。
BS録画で視聴。ちょうどよそで、オードリー・ヘップバーン&フレッド・アステアの「パリの恋人」の記事を見たりコメントしたりしたとこだったので(笑)
バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」が原作のミュージカル。60年ごろから主流になった、ダンスの個人芸より歌が中心のミュージカルだが(私は個人芸タイプが好き)、骨太の社会風刺や皮肉な人間観察の織り込まれた作品だけに、これはこれで正解かも。そして、レックス・ハリスン!このタイプのミュージカルでないと彼は出てこなかったろうし…。
馬車と自動車がすれ違う、20世紀初頭のロンドン。なりも言葉も汚い花売り娘イライザ(ヘップバーン)は、彼女の訛りをせっせとメモする言語学の教授ヒギンズ(ハリスン)と出会う。侮辱された、と思ったものの、後で「綺麗な英語を話せるようになれば、もっと良い職につけるかも」と思いなおしたイライザは、話し方のレッスンを受けられないかと教授の家を訪ねてゆく。最初は一笑にふした教授だが、「花売り娘をレディにすること」が可能かどうか、友人ピカリング大佐(ウィルフリッド・ハイト=ホワイト)と賭けをすることになり、イライザを屋敷に引き取り、最高級の話し方とマナーを仕込むことに(やっぱ英国人、賭け好きだ…)。
長く大変な特訓をへて、イライザはやがて、貴族の社交場アスコット競馬場、そして王族までがずらりと並ぶ大舞踏会へとのぞむのだが…
楽しくキャッチーな歌の数々(教授の歌のみ限りなく台詞に近く難しいが)、言葉をめぐるギャグと華麗なコスチューム…前半はまさにコミカルなシンデレラ・ストーリーだが、舞踏会の完璧な貴婦人ぶりの「後」こそが、ドラマとしては見どころだし考えさせられる。
舞踏会では大成功したものの、イライザそっちのけで狂喜する教授らを見て、イライザは傷つき教授宅を出る。が、生まれ育った下町へ行っても、レディになったイライザは既に場違いな存在になっている。ちょっとした夢(ちょっぴり暮らしをレベルアップ…)から始めた変身で、自分はどこまで来てしまったのか?夜のコヴェント・ガーデンに彼女の居場所はもうない。更に皮肉なことに、ここで再会する父親(スタンリー・ホロウェイ)も、意外な変身をとげている。娘にたかるばかりのダメ親父だったのだが、偶然入手した大金により本人曰く「中流階級のモラルに絡め捕られてしまった」のだ。
個人のアイデンティティというものは、外面だけでこうも揺らぐのか?「花売り娘かレディかの違いは、本人がどうふるまうかではなく、周囲にどう扱われるかよ」とイライザは言う。
とはいえ、二人三脚の熱い特訓の日々の中で、イライザは傍若無人なヒギンズ教授に惹かれてしまっている。
一方、最近では秘書役まで彼女にまかせていた教授は、彼女の家出に気づくと大慌て。その癖彼女の気持ちにはちっとも理解を示そうとせず、彼女の「自立ぶり」まで「自分の手柄だ」と言ってのけるが、再会した彼女にぴしゃりといなされ、しおしお自宅で思い出(?)の録音に聞き入るヘタレっぷり…だが、その背後には「やれやれ」という表情のイライザが。
教授が「もはや口だけ」であることはもう二人とも自覚している、という、ハッピーエンドの暗示で映画は終わる。原作戯曲のラストは“どちらにもプライドがあるし平和的共存はするが結ばれない”というもので、さすがは皮肉屋のショー先生。だが、ミュージカルのこれはこれで納得のエンディング。求めあっているところに妥協は生まれる(^^;)それを責めることはできません。
日本のちょっと古い時代の夫婦なんて高確率でそんなもんだったのでは…
かなり久しぶりに見たけれど、ストーリーの骨っぽい皮肉さが予想した以上に面白かった。
そしてやっぱり、そこんとこ、レックス・ハリスンだよな~(はぁと)。
オードリーは素晴らしく上品で綺麗だしコミカルな演技もできるけど、終始、超困ったおっさん(=教授)を、可笑しくも魅力的に演じてのけたハリスンにはかなわない。競馬場では、発音はともかく中身が伴わず、些か馬脚をあらわしたイライザも、舞踏会へ行く頃には中身まで相当レベルアップさせていたようだ(秘書がつとまるくらいだからね)。だからこそ、終盤教授に“一個の人間として”何とか認めさせることもできたわけだが、そこまでの内的成長や迫力までは出せてなかったようにも思う。
ジュリー・アンドリュースが「メアリー・ポピンズ」でオスカーをさらったのは、自分で歌ったから(+イライザ役をとられた同情票)と言われるけど、歌が吹替えかどうかだけじゃないよきっと。
特訓中のイライザを支えてくれたのは、何かと乱暴な教授でなく大佐の礼儀正しさなのだが、男と女はそれだけではないんだよね。教授は身勝手な皮肉屋で(しかも終盤はマザコン臭くさえある)、人の心にもなかなか気が回らないが、「言語」に対する敬意と献身はおそらく本物。
だから、イライザも必死でついて行ったのだ。男の魅力って、そんな所にチラ見えするもの。
そして、別タイプだがやっぱ頑固な超困ったおっさんのイライザ父(スタンリー・ホロウェイ)、端然とした英国紳士ぶりが癒しとなるウィルフリッド・ハイト=ホワイト。二人がまたいい味出してます。この映画、女性映画と思われそうだが(監督もキューカーだし)、いい仕事してるのはやっぱりオッサンたちだよね♪
スパイスのきいたショーの台詞が今も生きているのも凄い。独身主義者の教授が女なんてものは、“相談してきて、うなずくくせに、結局自分で全部決める”と歌ってるのって、「ホンマでっかTV」の議論と全く同じだろ(笑)
BS録画で視聴。ちょうどよそで、オードリー・ヘップバーン&フレッド・アステアの「パリの恋人」の記事を見たりコメントしたりしたとこだったので(笑)
バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」が原作のミュージカル。60年ごろから主流になった、ダンスの個人芸より歌が中心のミュージカルだが(私は個人芸タイプが好き)、骨太の社会風刺や皮肉な人間観察の織り込まれた作品だけに、これはこれで正解かも。そして、レックス・ハリスン!このタイプのミュージカルでないと彼は出てこなかったろうし…。
馬車と自動車がすれ違う、20世紀初頭のロンドン。なりも言葉も汚い花売り娘イライザ(ヘップバーン)は、彼女の訛りをせっせとメモする言語学の教授ヒギンズ(ハリスン)と出会う。侮辱された、と思ったものの、後で「綺麗な英語を話せるようになれば、もっと良い職につけるかも」と思いなおしたイライザは、話し方のレッスンを受けられないかと教授の家を訪ねてゆく。最初は一笑にふした教授だが、「花売り娘をレディにすること」が可能かどうか、友人ピカリング大佐(ウィルフリッド・ハイト=ホワイト)と賭けをすることになり、イライザを屋敷に引き取り、最高級の話し方とマナーを仕込むことに(やっぱ英国人、賭け好きだ…)。
長く大変な特訓をへて、イライザはやがて、貴族の社交場アスコット競馬場、そして王族までがずらりと並ぶ大舞踏会へとのぞむのだが…
楽しくキャッチーな歌の数々(教授の歌のみ限りなく台詞に近く難しいが)、言葉をめぐるギャグと華麗なコスチューム…前半はまさにコミカルなシンデレラ・ストーリーだが、舞踏会の完璧な貴婦人ぶりの「後」こそが、ドラマとしては見どころだし考えさせられる。
舞踏会では大成功したものの、イライザそっちのけで狂喜する教授らを見て、イライザは傷つき教授宅を出る。が、生まれ育った下町へ行っても、レディになったイライザは既に場違いな存在になっている。ちょっとした夢(ちょっぴり暮らしをレベルアップ…)から始めた変身で、自分はどこまで来てしまったのか?夜のコヴェント・ガーデンに彼女の居場所はもうない。更に皮肉なことに、ここで再会する父親(スタンリー・ホロウェイ)も、意外な変身をとげている。娘にたかるばかりのダメ親父だったのだが、偶然入手した大金により本人曰く「中流階級のモラルに絡め捕られてしまった」のだ。
個人のアイデンティティというものは、外面だけでこうも揺らぐのか?「花売り娘かレディかの違いは、本人がどうふるまうかではなく、周囲にどう扱われるかよ」とイライザは言う。
とはいえ、二人三脚の熱い特訓の日々の中で、イライザは傍若無人なヒギンズ教授に惹かれてしまっている。
一方、最近では秘書役まで彼女にまかせていた教授は、彼女の家出に気づくと大慌て。その癖彼女の気持ちにはちっとも理解を示そうとせず、彼女の「自立ぶり」まで「自分の手柄だ」と言ってのけるが、再会した彼女にぴしゃりといなされ、しおしお自宅で思い出(?)の録音に聞き入るヘタレっぷり…だが、その背後には「やれやれ」という表情のイライザが。
教授が「もはや口だけ」であることはもう二人とも自覚している、という、ハッピーエンドの暗示で映画は終わる。原作戯曲のラストは“どちらにもプライドがあるし平和的共存はするが結ばれない”というもので、さすがは皮肉屋のショー先生。だが、ミュージカルのこれはこれで納得のエンディング。求めあっているところに妥協は生まれる(^^;)それを責めることはできません。
日本のちょっと古い時代の夫婦なんて高確率でそんなもんだったのでは…
かなり久しぶりに見たけれど、ストーリーの骨っぽい皮肉さが予想した以上に面白かった。
そしてやっぱり、そこんとこ、レックス・ハリスンだよな~(はぁと)。
オードリーは素晴らしく上品で綺麗だしコミカルな演技もできるけど、終始、超困ったおっさん(=教授)を、可笑しくも魅力的に演じてのけたハリスンにはかなわない。競馬場では、発音はともかく中身が伴わず、些か馬脚をあらわしたイライザも、舞踏会へ行く頃には中身まで相当レベルアップさせていたようだ(秘書がつとまるくらいだからね)。だからこそ、終盤教授に“一個の人間として”何とか認めさせることもできたわけだが、そこまでの内的成長や迫力までは出せてなかったようにも思う。
ジュリー・アンドリュースが「メアリー・ポピンズ」でオスカーをさらったのは、自分で歌ったから(+イライザ役をとられた同情票)と言われるけど、歌が吹替えかどうかだけじゃないよきっと。
特訓中のイライザを支えてくれたのは、何かと乱暴な教授でなく大佐の礼儀正しさなのだが、男と女はそれだけではないんだよね。教授は身勝手な皮肉屋で(しかも終盤はマザコン臭くさえある)、人の心にもなかなか気が回らないが、「言語」に対する敬意と献身はおそらく本物。
だから、イライザも必死でついて行ったのだ。男の魅力って、そんな所にチラ見えするもの。
そして、別タイプだがやっぱ頑固な超困ったおっさんのイライザ父(スタンリー・ホロウェイ)、端然とした英国紳士ぶりが癒しとなるウィルフリッド・ハイト=ホワイト。二人がまたいい味出してます。この映画、女性映画と思われそうだが(監督もキューカーだし)、いい仕事してるのはやっぱりオッサンたちだよね♪
スパイスのきいたショーの台詞が今も生きているのも凄い。独身主義者の教授が女なんてものは、“相談してきて、うなずくくせに、結局自分で全部決める”と歌ってるのって、「ホンマでっかTV」の議論と全く同じだろ(笑)