1962年、ジョン・フォード監督作品。モノクロ。
スカパー録画で視聴。ネタバレ気味ですがお許しを。バレずに書けない話でもあり。


西部の小さな町シンボーンに、上院議員ランス(ジェームズ・スチュワート)と妻ハリー(ヴェラ・マイルズ)が降り立つ。旧友の葬儀に出るためという。独占取材をと意気込む地元新聞社に対し、議員の語った昔語りとは…

東部からきた若い弁護士・ランスは西部に着くなり悪党リバティ・バランス(リー・マーヴィン)一味に襲われ怪我をする。それを見つけて町へ運んでくれたのがくれたのが牧場主のトム(ジョン・ウェイン)。銃の名手でもあるトムは「ここに住むなら銃の力に頼るしかない」と言うがランスは銃を否定する。町に法の権威をうちたてるべく学校を開いたり、選挙の段取りを進めるランスにリバティは決闘をふっかける。一方的と思われた決闘だが倒れたのは意外やリバティの方。町の代表として準州議会へ出席したランスは彼を英雄扱いする周囲の後押しでやがて中央政界へと打って出る…
だが、リバティを倒したのは、実はランスの撃った弾ではなかったのだ。

真相を聞いた記者たちは、真実よりも伝説が大切、と書きとめた原稿を破り捨てる。
だが、帰りの列車に乗り込んだランスの表情には微妙なものが。そろそろワシントンを去ってシンボーンに戻ろうか、と言うと、終始哀しげだったハリーは「ずっと夢見ていたわ」と漸く破顔するのだった。


スチュアートの役柄は、言うなれば30年代にキャプラ映画「スミス都へ行く」などで演じた理想主義的青年の再現だろう。本人、ちょっとトウがたってはいるが、イメージがハマりすぎていてブレがない(その癖、現在の老ランスには、政治家的な「くさみ」もちらつく。何とも抜かりがない)。ハリーはトムの恋人(恋人未満?)で、「そのうちトムがプロポーズする」のが周囲の暗黙の了解となっているのだが、文盲の自分に字を教えてくれたり、町を変えようと働きかけるランスが見せてくれる「新しい世界」に目がくらんでゆく(とはいえ、さっさとトムがプロポーズしていれば、ランスは明らかに遠慮もしているので普通にトムと結婚していたろうと感じられる)。
ポイントはトムがランスに見せる奇妙な遠慮だろう。ランスが信じる、銃の力を使わない秩序に対して、“現実はそうはいかない”と言い切りながら、実は畏敬とコンプレックスを抱いているようにすら見える。ランスが負うべき影を一人で引きうけ、恋からも身を引き、けれど悟るどころか自虐の痛みにボロボロになりつつ死んでゆくのだから(荒れた演技でウェインがまたいい味を出している)。

良いガンマン(ウェイン)と悪いガンマン(マーヴィン)。通常の、昔ながらの西部劇では、この二者の対決でコトは終わる。良いガンマンが勝てば町は平和になるのだ。この映画でも一触即発の場面は訪れる。だがランスが「こんな事で殺し合いか!?」と叫んで割って入る。“自分の喧嘩”と見ているからだ(とはいえ悪いガンマンは自分の土俵でしか喧嘩はしないので、弁護士が喧嘩を買っても本来の勝ち目はない)。
ランスさえ登場しなければ、トムは普通にヒーローになり恋人と幸せな生涯を送っただろう。

法の権威や人の理性を重んじるランスの思想は間違いなく「進歩」だ。それを称えるフリをしながら、ひっそりと消えゆく古い西部魂への挽歌をかなでる、手の込んだ作劇を見せるフォード。
いや、必ずしもフリだけでないのかも?初めての選挙にドキドキワクワクする市民たちの表情は微笑ましい。でも、より大きな町で開かれる準州議会は妙にショーアップされ、胡散臭さがこぼれだす。
トムとハリーの恋は、時代の流れに流産させられてしまったと言えるのかもしれない。

フォード映画の常?酔いどれ新聞社主エドモンド・オブライエン、弱虫保安官アンディ・ディバイン、狂犬のようなマーヴィン、そのほかワキも全員良い感じ。


学生時代にTVで見て以来の再見ですが、やっぱり矢鱈いろいろなことを考えさせられる、奇妙に感傷的な西部劇でした。普通に好き、と言うにはほろ苦い気もしますが、ひねりまくったロマンティシズムは後を引きますね。

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